お好み焼きは人生の一角となりうるか。
かつてバッキー井上氏が、まんぼ山本の店のことをこう書いていた。「京都タワーにあっても京都府警にあってもおれは行く。人生の一角だから」と。店の周りの雰囲気や、店のシブサばかりを言うのは、ことお好み焼きにおいては当てはまらない。
うまい、好き、と思えるお好み焼きかどうかが重要であり、他者の反応としては「よっしゃ、食べてみたろ」という態度で来てもらいたい。そんな内容だと受け止めていた。
幸いにも、生まれ育った街に自分の好きなお好み焼きがある人は、よその街に行っても、自分の店との比較を楽しめる。「うわ、ジャガイモやて、こんな具入れとるで」や「なんちゅう辛いソースや」などと、自分の中に基準があるから自然と沸いて出るものがある。
よその街のお好み焼きをうまい、マズイと言うのは自由だが、そこで重要なのは自分の愛する店があるかないか、だと考えている。その街のお好み焼きには、その街なりの時間や店と客とのやりとりが積み重ねられてきたものが凝縮されているからだ。お好みをバカにするのは、その街に対して唾を吐くようなもの、とは少し大げさか。
「ほな、おまえのうまいと思てる店に連れて行けよ」と言われて、胸を張って行ける店があるかどうか、なのである。それは何も生まれ育った街になくてもいい。会社帰りに見つけた店や、友達の家の近所の店でも構わない。そういう店を持っておこう、と言いたいのだ。
「お好みジャンケン」とでも言おうか。いや、勝ち負けではなく、延々と続く人生とお好み焼きの関係は、一人ぼっちでうまいなあ、と思っているよりも、よその街に足を運んだり連れられていったりして、あれこれ言い合うことでより面白く、そしてより美味しく感じるようになるのではないか。
未だ自分のお好み焼きを見つけていない人は、以下の店々を参考に(あくまで参考ね)街を渡り歩き、地元の人と話をし、「桃谷ではエビ天入れてた」や「たかばしではホソがたまらんかった」とやって欲しい。そこからきっと、ゴールが見つかるはず、そして真のお好み焼き人生が始まるのだ。
(文:曽束政昭) |

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